2003/1/23

ネイティブアメリカン居住区にて その2


凍えつくような冬を越し、雪が溶けてチューリップがつぼみをつけ始めた頃、精神的にようやく余裕が出てきました。

ある日、村で初めての日本人がいるということを聞きつけ、幼稚園の先生が訪ねてきました。
生徒たちに日本のことを話しに来て欲しいとのこと。人と会うこと、話すことに飢えていたわたしは、もちろんお受けしました。息子を連れて、幼稚園のクラスを3つほどまわり、生徒たちに「しあわせなら手をたたこう♪」を日本語で教えました。それまで、村には自分たちしか生活してないのではないかと錯覚するほどの、孤立を感じていたので、この先生の申し出は、わたしが外へ目を向けるきっかけになりました。

その後、小学校の放課後クラブに参加し、ネイティブアメリカン独特の手芸のひとつ「ビーズ細工」を習い始めました。ここでは、村の子供たちと話す機会もあり、少し前の日本と同じ大家族制、目上をいたわる文化、それに特有のしきたりのようなものも教えてもらいました。貧しい、親がいないなどの厳しい家庭環境の中でも、のびのびと育っている子供たちの笑顔に、わたしは「何を憂いているのか」と問われているように思ったことを覚えています。

また夫の職場の同僚たちと話すことで、わたし自身もそして一緒に連れて出る息子も、家族以外の人と接し、世界を広げていく楽しさを知りました。

2年間、取り巻く環境は変わらなかったのですが、わたしの見方も変わり、受け入れ方を考えるようになって、少しずつ前向きに過ごすことができるようになっていたように思います。息子はそんなわたしの葛藤も知らずに、すくすくと大きくなり、やがて2歳の誕生日を前に、夫の仕事でその村を去ることになりました。

世界中に散らばる日本人。
人気のある都市でなく、日本と文化も環境も程遠い土地に住んでいる、あるいは住んでいた方もいらっしゃることでしょう。もっと苦労をされている方が大勢いるかもしれません。でもわたしにとって、カルチュアショックとも言える貴重な経験と、当初の辛い思い出は、今とこれからの我が家が、どこに住んでも、何があっても、頑張っていける励みになっています。


アメリカからのこそだて奮闘記


日本で大手企業の広報課長を務めているときに、アメリカ人の英会話教室の先生と結婚、渡米。日米の文化の違いに悩まされながら、子育てに奮闘中。

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